2011年2月15日火曜日

二十一章 読者様からの投稿

いつもこのHPをご覧いただいているという方から、メールにて「記事掲載希望」のご投稿をいただきました。ありがとうございます。

以下、松山市在住の匿名Nさんからいただいた文章です。




「鹿島狂」と呼ばれた男

鹿島の西側には水晶ケ浜と呼ばれるきれいな砂浜がある。いつの時代にその名がついたのか、誰が付けたのかは不明だが、きっと水晶のような輝きに見えたのであろう。


その水晶ケ浜の近くに「淡紅洞(たんこうどう)」という洞窟がある。↓


ここは、波の力によってできた自然の彫刻だ。なぜここは「淡紅洞」と名付けられたのか?。そこには郷土を愛したある人物の姿があった。

「三由淡紅(みよしたんこう)」。

明治11年、風早郡北条村に生まれた。
5歳で父を亡くし、7歳で松山市西堀端の藍問屋の伯父に引き取られる。
12歳である商家に奉公に出て、15歳で西垣生町の「今出絣株式会社」の店員となった。

このときの頭取が俳人の村上斎月で、淡紅は村上から学問を学ぶ一方、俳句の指導を受ける。
その後俳句を通して生まれ故郷「鹿島」の景勝地を世に知らしめるため文人墨客を招き俳句大会を開催するほか、島の難所に私財を投げうって橋をかけ鹿島周遊道の足がかりを作るなど、鹿島の宣伝開発に努めた。

鹿島に愛着を抱くあまり、俳人仲間から「鹿島狂」などと呼ばれたと言う。昭和34年にこの世を去る。生涯創作した句1200余りを収録した「淡紅句集」が残っている。


この淡紅の功績を称え、鹿島裏の洞窟を「淡紅洞」と名付けられた。

若くして苦労した者ほど、ふるさとの大切さを心深くに刻むことができるのだろう。
なら、今の世、苦労もなく育ってきた我々にとって、このふるさと「北条」はどのように見えているのか。

なぜ淡紅が鹿島を自慢でき、多くの人に来てもらおうと動いたのか?

淡紅が生きていた時代の鹿島は松の木が生え並び「白砂青松」だったろう。
しかし、それほど大きく変わってはいないはず。緑溢れるこの鹿島の魅力は古くからずっと変わっていないのであり、地元住民がその魅力に気付かないだけである。

外から来る人ほど、この景色の素晴らしさに感嘆すると言う。
地元の魅力が地元で気付かないのなら、その魅力に気付かせるためにも、北条外からの声を受けそれは発信しなければならない。

多くの方がこの鹿島を、そして北条を訪れた時、「鹿島のいいところってどこですか?」と訪ねられたとしよう。なんと答えるのであろうか?。いまのままではきっと答えられないであろう。

これからきっとこの「鹿島」は全国的に名の知られる場所となるであろうし、そうなってほしい。
今こそ、地元は「三由淡紅」の気持ちを持たなければならないのである。