2011年2月27日日曜日

二十八章 TOWER

土手内地区の海の横に建つ家具屋さん「Tower」を紹介します。


Towerは当時東京の青山にあった有名な家具屋さん「IDEE」の職人だった室さんが松山にUターンして作った工房を兼ねたショップです。

一階と二階が工房、三階は家具を展示していますが、土日限定でカフェをやっています。
一杯200円のコーヒーはこだわった豆を使っていてすごく美味しい。北条の水がいいというのもあるかも知れません。以前は高縄山まで湧き水を汲みに行ってましたが、北条は水道水も地下水なので美味しさはあまり変わらないようです。

何よりも、ここからの景色を見ながら過ごす時間は最高。心が平穏になります。


室さんと青山のIDEEで一緒に働いていたサーファーの小林くんは、4年前Towerに遊びに来て北条がとても気に入り、そのままTowerの二階に住み一緒に働くことになりました。

「ちょっとお昼に行ってきます。」と書かれた看板が出ていて、誰もいないことがありますが、ゆる〜く営業しています。

この場所は誰も拒むことなく、時間がゆっくり流れる場所です。
たまに、テレビなどで見かけるアナウンサーやタレントさん、ミュージシャンが来てることもあります。


Towerが土手内に建ってからというもの、左隣にはOCEANS13というおしゃれなマンションが建ち、個性的な若者がこの場所に移住してきてこの地区に活気が出てきました。

土手内住民は皆仲良しです。夏には土手内住人手作りのお祭りをやったりもします。


松山市内からも個性的な若者やアーティスト、海の好きな人たちが親子連れで遊びに来てくれます。



昨年、有志たちがたいへんな労力と自費を割いて東京から有名なミュージシャンを呼び海辺のコンサートを行いました。愛媛県内外から多くの音楽ファンに来て頂き、北条の魅力を感じて帰っていただきました。
参加してくれたミュージシャンも、「綺麗な海と夕日を背負っての演奏は忘れられない体験です」と。
おかげで皆がハッピーな日になりました。



室さんと小林くんが青山のIDEEで働いていたとき、僕は青山ベルコモンズ横にあった某レコード会社に勤務。うちのかみさんは神宮球場横にある青山高校の学生。もちろんその当時はまったく見ず知らずの関係だった4人でしたが、広い日本の広い東京で、たまたま青山の半径500m以内にいた見ず知らずの4人が、今では四国北条の土手内地区の半径50m以内にいて、何かを一緒にしようとしている。

「縁」というのはつくづく不思議なものです。もっともっと多くの方々と、目に見えない良い縁の糸を紡いでいければいいなと思っています。

写真左が僕で、右が「風早社中」中心メンバーのTower室愛彦さん。晴彦と愛彦のツーショットです。

2011年2月25日金曜日

二十七章 坂雲まちづくり講演会

今日ポストに入っていた「広報まつやま」の二面に、早坂暁先生の講演会のお知らせが書かれてありました。

待ってました!

「坂の上の雲」まちづくり講演会〜北条の魅力を語る〜
3/21(月・祝)13時〜15時 
北条ふるさと館にて(定員200名)申し込みは往復ハガキにて、締め切りは3月10日(木)必着だそうです。

以下、松山市のHP参照。
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/ICSFiles/afieldfile/2011/02/23/20110301_02.pdf

お問い合わせは、坂の上の雲まちづくりチーム(089)948-6995


今日の松山は20℃近く気温が上がりました。なによりも、17時がまわってもまだ青空があることが嬉しい。夕方に青空があるだけで幸せな気分になります。

写真は、我が家から見上げた17時の北条上空↓

2011年2月22日火曜日

二十六章 ニャンニャンニャン

今日2月22日は、ニャンニャンニャンの語呂合わせから猫の日だそうです。このHPを訪れてくれた方のカウント数も、偶然にも今日中に「2222」を迎えそうですね。

北条の海岸線沿いには多くの野良猫が住んでいます。エサが豊富なのでしょう。





4年前の1月 寒い朝に鹿島神社までジョギング、参拝に行った時のこと。

本殿の階段の前で両目のつぶれた片手に乗るくらいの子猫がミャーミャー鳴いていました。このまま放っておいたほうがいいのかどうか? 悩んだのですが、その鳴き声が僕に助けを求めているような気がして、「この子を連れて帰ります!」と、鹿島神社の神様に手を合わせてから急いで動物病院へ。

「猫しかかからない風邪のような病気から目がおかしくなっているが治療で治る」とのことで、そのままうちで飼うことにしました。

4年前のななちゃん

子猫の時に車で通院したのが楽しかったのか、未だに車で旅をするのが大好きで、東京までの遠出もいつも一緒に行きます。

仕事に出かけるときにはなんとなく雰囲気でわかるようで、必ず「連れて行け!」と床からピョンと腕まで飛び乗ってきます。

車のエンジン音を聞き分けられるみたいで、僕が車で帰宅するとどこで寝てても階段をダダダダ〜っと駆け下りてきて必ず入口で出迎えてくれる忠犬のような猫です。あと、彼女は飼い主に似たのか、よくしゃべります。

今のななちゃん

今ではうちになくてはならない存在のななちゃんは、北条鹿島神社の神様から授かった大切な宝物です。

2011年2月21日月曜日

二十五章 袋小路

JR伊予北条駅前〜鹿島を再興させるべく、JR伊予北条駅内の空き店舗を貸し棚と市民広場を兼ねた場所として再生させようと、「貸し棚出店者」を募集しておりましたJR北条駅 空き店舗 「貸し棚」プロジェクトの件です。(このHP内、1月21日(金) 四章に募集詳細有り)


経過を説明致します。

北条駅内の空き店舗の再生プロジェクトを企画するにあたり、一番の課題は「毎月のテナント賃料と運営費」をどうするかでした。単純に計算しても、賃料6万、光熱費3万、人件費20万で、月約30万円はかかることになります。

そこで候補に挙がった企画が、JR北条駅のコンビニ跡空きテナント内の棚を、30業者に月1万円で貸し出すプロジェクトでした。1月21日(金)にフライヤーやHPなどで募集を開始。

同時に、ラジオなどでも出店を呼びかけ、「もしそういう企画があれば参加しますか?」と皆に意見を聞きました。

「松山から北条へ納品に行く手間がかかる」、「あそこは人がいないので売り上げが期待できない」など、なるほどの声が寄せられました。

ひそかに平日のJR伊予北条駅の人の流れを調査してみますと、確かに人がいるのは朝と夕方の通勤時の少しの時間のみで、電車通学の北条高校や聖カタリナ大学の学生さんは電車が来る時間のぎりぎりまで駅ウラにある大型スーパーにいて、電車が来ると急いで駅のホームを横切り電車に乗り込むという光景を多く見かけました。

結果を言いますと、あれからちょうど一ヶ月経った募集締め切りの今日現在、申し込み者が3名ということで、テナント管理会社様にも上記のようにお伝えし、企画を中止しました。

しかしやはり、JR伊予北条駅のテナントが空きのままになっていると火が消えているようでなんとも寂しく、防犯の面でも不安を感じます。何よりも「廃れた町」というイメージが抜けません。

そこで、まちづくり協議会の方に「地元の老人会の皆さんに北条駅テナント内にお引っ越しを考えていただけないか?」と聞いていただいたところ、「今いる場所を作るのに松山市から補助金をいただいた経緯があり、義理が立たないということと、やはり居慣れたところを動きたくない」ということでした。ごもっとも。

というわけで、第一弾の北条駅前再生のプロジェクトは袋小路に入ってしまいました。

日本全国いろんな町を訪れましたが、「JRや私鉄駅前が廃れているのに町はにぎわっている」という町を僕は今まで見たことがありません。駅前がその町を象徴していると言っても過言ではない。せめて駅前くらいは活気が戻って欲しいと願っています。いつかJR北条駅前テナントでの商売成功する業者さんが出てくれれば、「この場所でも商売できるんだ!」と思ってくれる業者さんが次々に駅前通りを埋めてくれるようになってくれるでしょうが、0を1にする作業が一番しんどいんです。

今回協力していただいた皆様に感謝。JR北条駅 空き店舗 「貸し棚」プロジェクト募集は中止しましたが今日の空は青い。心はまだ折れていません。次のアイデアを考えて動きます。






2011年2月19日土曜日

二十四章 高浜虚子

『「高浜虚子さんを知ってますよね?」

「ああ、俳句の大家。子規さんの一番弟子だよ」

そこで私は、高浜虚子の自伝の冒頭をそらんじてみせた。

「……幼い私の目に初めて映った天地は、東の方には河野氏の城跡があるという高縄山がそびえ、北の端れに恵良(えりょう)、腰折(こしおれ)という風折烏帽子のような二つの山がありまして、海の中には鹿島という鹿のおる島がありまして、西の方の海の中には千切(ちきり)、小鹿島(こがしま)という岩が並んで、夕方になると、そこに日が落ちまして、白帆が静かに浮かんでおりました」

「……そして、私は母親の背中で沈む赤い夕日を眺めました。母が、きれいだね、きれいでしょうと何度も何度もくりかえして言いました」

最後に、虚子の述懐を付け加えた。

「……考えてみると、一生かかって、その美しい景色を俳句にしてきたような気がする」

私は、最初に見た景色は、時としてその人の一生を支配することを、中川に告げたかったのだ。』

*この文章は、早坂暁先生が昨年夏に出版した本「君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝(求龍堂)」から抜粋させていただいたものです。(とても良い本です。是非手にとって読んでみてください。まったくお世辞ではなく、早坂先生の著作には外れがありません。)

早坂先生が華道の大家である友人の中川幸夫先生に高浜虚子の自伝の冒頭をそらんじてみせる印象深いシーンですが、この文章からも高浜虚子が北条の景色を愛していたことがよくわかります。

虚子の俳句は「北条の景色」そのものなのです。


若き頃の高浜虚子
鹿島から見た 腰折山

千切、小鹿島の間に夕日が沈もうとするのは夏時期です。

白帆の小舟の向こうに梅干しのような夕日がゆっくりと沈むシーンは、虚子さんでなくとも、忘れられない日本人の心の原風景です。悲しくもないのに涙が出そうになります。




2011年2月18日金曜日

二十三章 タウンミーティングのご報告

昨夜、北条コミュニティーセンター3階にて、松山市長と北条地区の住民約100名がまちづくりについて直接対話をするタウンミーティングが行われました。


挙手をして指名された人から、市長に質問をして市長と担当部長に答えていただきます。


僕は「北条鹿島の風早社中」の代表として3つの質問を用意して参加したのですが、幸運にも一番最初に指名して頂きました。


昨夜の質問をそのまま以下に記載します。


質問Q. ます、北条出身の市長が誕生して、我々住民は頼もしく思っております。愛媛県内外の、北条と鹿島が大好きな有志、現在会員約80名の団体、NPO「北条鹿島の風早社中」の代表、藤田と申します。


鹿島は「男はつらいよ」でお馴染みの俳優 渥美清さんが日本で最も好きだった場所です。そんな鹿島をこのまま放っておくのは地元北条のためにも松山のためにももったいない。地元の方々やたくさんの観光客の皆さんに鹿島を訪れてもらってその魅力を全国に発信していきたいと思っているのですが、現状では民間だけでやるには無理なことがたくさんあります。

そこで今日はしぼって3つのお願いと質問がございます。

*一つ目は、鹿島のフェリー料金と駐車場料金の値下げのお願いです。現在大人が300円、駐車場料金が一台610円かかります。二人の子供を連れて家族で鹿島によると1520円もかかってしまいます。これではちょいと寄るには寄りにくい場所です。また、地元の方が毎日散歩コースに行ける料金でもありません。せめて往復で100円程度にしていただいて、地元のボランティア清掃に行く団体や個人の方々には優遇措置を設けてもらうようにして、地元の人が日常的に行ける場所として鹿島の新陳代謝をよくすることが一番の活性化になると思います。

市長A. 鹿島のフェリーに関する年間の収支、支出が3700万円、収入が780万円+駐車場料金収入230万円=1110万円。約2600万円の赤字ですが、何もしないよりは何かしてみないとわからないので、料金と駐車料金の見直しを現在担当者に指示して実験的に値下げをする予定にしています。


質問Q. *時間がもったいないので二つ目と三つ目の質問をまとめてちょっと早口で質問させていただきます。二つ目は通行禁止となっている鹿島の市道の問題を始めとする規制緩和のお願いです。鹿島周辺で聞いた何人かの住民の声をまとめました。

北条市時代は役所はなにも言わず普通に通行していた鹿島の市道なのに、合併後通行禁止の看板が立てられたのは、神経質すぎる判断ではなかったか。砂を除けただけで充分今のままで通行できる。この10年以上、強い雨風台風でも落石して道がふさがれたりする事故がなかった鹿島の市道がもし危険だというのならば、たくさんの観光客が訪れていたのに大雨で全壊した愚陀仏庵は何だったのか?
修復しなければ通ってはいけないというのならば早くどうにか修復をして欲しい。*どこまで修復をすればいいのか?修復金額など住民には見当が付かない。」などの意見がありました。


三つ目は、鹿島に渡っても店が開いてないでは困ります。現在鹿島には一年中空いているお店がありません。鹿島の空き店舗対策を早急に手を打っていただきたい。先日、寒い朝に鹿島に散歩に行ったときに、もしお店から白い煙が出ててコーヒーの匂いなんかがしているお店が一軒でもあれば、島の雰囲気が全然違うんだけどなあ〜と思いました鹿島の空き店舗をうまく利用し、個性的なお店が出来れば絶対に人の流れは変わると思います。



市長A. まず、鹿島の市道の件ですが、現状は通行止めを解除するのは難しい状態です。愛媛大学の教授の調査に寄れば、鹿島の北西部の地質はマサ化(気温の差により岩石表面で膨張と収縮を繰り返すと,鉱物種ごとに膨脹率が異なるために鉱物粒の間でひずみを生じてバラバラにナリ粗い砂粒を形成する)しやすい地盤で風化を止められないそうです。修復工事をするとなると費用は安い方式で2億2600万円、高い方式で3億8000万円かかるそうです。松山市の財政事情からそこまでのお金は今は費やせません。北西部には水晶が浜など美しい場所がありますが、遊覧船を出して鹿島を一周するというアイデアもあるので希望は捨てないでやれることからやっていきましょう。

質問Q. 今の回答は、「鹿島の通行は今のところあきらめろ」と、鹿島は手放せということでしょうか?

市長A. 「いや、やれることからやっていきましょう。」

(鹿島の出店に関しては、担当部長さんから、「もし出店希望者がいれば検討しますので松山市にご連絡ください」との回答がございました。)



その後、90分の制限時間内にたくさんの皆さんから挙手があり、


.「現在民間業者に委託しているフェリー乗り場と鹿島の清掃業務を、地元のまちづくり協議会やNPOにまかせてくれないか?」


市長A. 長く持続してきちんと業務を任せられる能力がある団体かどうかの査定はさせていただきますが、可能です。


.「北条が重要な場所になると思っていただいているならば、JR北条駅前から鹿島フェリー乗り場までを松山市まちづくり特区として重点的に手を入れていただけないか?」
.「JR北条駅前に松山市役所北条支所を移動させれば、駅前がにぎわい人の流れが変わるのでは?駅前で日曜市をやるものいい
.「夢のような話だが、水族館を北条に作ってもらえれば、砥部の動物園との地域バランスもとれる」


など、積極的に地域の課題に関する意見、提言があり、今後住民と行政がどのような役割分担でまちづくりを進めていけるかについて話し合いました。


挙手をしている方、まだまだいらっしゃいましたが、終わりの時間が来てしまい、最後に市長の感想と挨拶の時、


市長「今日のミーティングで、心に引っかかってた言葉が一つあります。最初の質問の時に藤田さんがおっしゃった言葉で、鹿島はあきらめろ、手放せということでしょうか?という言葉です。私はあきらめていません」と。


ありがとうございます!その言葉、皆信じてますよ。昨夜の住民の声を今後の松山市の政策により多く活かしていただければ有り難いです。


前市長の時からそう思っていましたが、市民と市長が直接対話が出来る機会があるというのは本当に良いことだと思います。東京から松山に帰って10年以上が経ちましたが、僕は松山の行政に対してなにも不満がない。すごく頑張ってくれている地域だと思います。

唯一のストレスは、どうせほとんどのゴミは全部一緒に燃やすのに、ゴミの分別、あんなに神経質にしなくてもええんじゃないのかなあ〜と(笑)。

以上、タウンミーティング初体験のご報告でした。

2011年2月17日木曜日

二十二章 読者様からの投稿2

メールにて風早社中メンバーにご入会いただきましたTさん(58歳・男性)からいただいたメールを以下にアップさせていただきます。こういう地元の方がいてくれるのは心強い限りです。


ブログ、楽しく拝見しています。河野地区に住んでます。西の下(にしのげ)の海岸が私の原点です。子供の頃は消波ブロックはなくシラスの水揚げもあり白砂青松の浜でした。
鹿島もたまに一周しますが、ずいぶん前に人の手が入り亀裂の広がる岩がなくなり残念に思います。でも、その昔先輩に誘われ鹿島を一回り泳げた事が泳ぎの自身につながっています。
そんな鹿島を含めた北条を盛り上げようと言うこと頼もしくおもいます。応援しています。


↓写真は、北条の海沿いに咲き誇る菜の花

2011年2月15日火曜日

二十一章 読者様からの投稿

いつもこのHPをご覧いただいているという方から、メールにて「記事掲載希望」のご投稿をいただきました。ありがとうございます。

以下、松山市在住の匿名Nさんからいただいた文章です。




「鹿島狂」と呼ばれた男

鹿島の西側には水晶ケ浜と呼ばれるきれいな砂浜がある。いつの時代にその名がついたのか、誰が付けたのかは不明だが、きっと水晶のような輝きに見えたのであろう。


その水晶ケ浜の近くに「淡紅洞(たんこうどう)」という洞窟がある。↓


ここは、波の力によってできた自然の彫刻だ。なぜここは「淡紅洞」と名付けられたのか?。そこには郷土を愛したある人物の姿があった。

「三由淡紅(みよしたんこう)」。

明治11年、風早郡北条村に生まれた。
5歳で父を亡くし、7歳で松山市西堀端の藍問屋の伯父に引き取られる。
12歳である商家に奉公に出て、15歳で西垣生町の「今出絣株式会社」の店員となった。

このときの頭取が俳人の村上斎月で、淡紅は村上から学問を学ぶ一方、俳句の指導を受ける。
その後俳句を通して生まれ故郷「鹿島」の景勝地を世に知らしめるため文人墨客を招き俳句大会を開催するほか、島の難所に私財を投げうって橋をかけ鹿島周遊道の足がかりを作るなど、鹿島の宣伝開発に努めた。

鹿島に愛着を抱くあまり、俳人仲間から「鹿島狂」などと呼ばれたと言う。昭和34年にこの世を去る。生涯創作した句1200余りを収録した「淡紅句集」が残っている。


この淡紅の功績を称え、鹿島裏の洞窟を「淡紅洞」と名付けられた。

若くして苦労した者ほど、ふるさとの大切さを心深くに刻むことができるのだろう。
なら、今の世、苦労もなく育ってきた我々にとって、このふるさと「北条」はどのように見えているのか。

なぜ淡紅が鹿島を自慢でき、多くの人に来てもらおうと動いたのか?

淡紅が生きていた時代の鹿島は松の木が生え並び「白砂青松」だったろう。
しかし、それほど大きく変わってはいないはず。緑溢れるこの鹿島の魅力は古くからずっと変わっていないのであり、地元住民がその魅力に気付かないだけである。

外から来る人ほど、この景色の素晴らしさに感嘆すると言う。
地元の魅力が地元で気付かないのなら、その魅力に気付かせるためにも、北条外からの声を受けそれは発信しなければならない。

多くの方がこの鹿島を、そして北条を訪れた時、「鹿島のいいところってどこですか?」と訪ねられたとしよう。なんと答えるのであろうか?。いまのままではきっと答えられないであろう。

これからきっとこの「鹿島」は全国的に名の知られる場所となるであろうし、そうなってほしい。
今こそ、地元は「三由淡紅」の気持ちを持たなければならないのである。


2011年2月12日土曜日

二十章 空き店舗の有効利用

風早社中のメンバーあきくんが、
三津浜商店街の中程に開いた住居兼アンティークなCafe「田中戸」↓

実はこの場所、ずっとシャッターが閉まっていたスポーツショップだったんです。
そこをオーナーさんに安く借りて改築も内装もぜ〜んぶ自分たちで手作り。
鹿島や北条の商店街にも空き店舗がたくさんありますが、こういうお店がポツリと一つ出来るだけで、新陳代謝がよくなるというか、何かそこから広がってゆくような気がするんですよね。まさに空き店舗の有効利用。土地もお店も生き物です。

この店内にいると竜宮城にいるように時間がゆっくり流れ、浦島太郎のように時間軸がおかしくなります。 
きっと中島出身の店主あきくんが店の中に島のゆったりした空気と時間を運んでくるのでしょう。 

不思議で、素敵なお店です。 
昨日2月11日(金)から田中戸台湾展開催中。

2011年2月11日金曜日

十九章 設立総会

建国記念日の今日、NPO「北条鹿島の風早社中」の設立総会を行いました。



出席者は、役員と会員6名、北条まちづくり協議会から2名の合計8名。各々の自己紹介の後、NPOの定款を読み上げ、全員の認証を確認。具体的な問題点を挙げてもらい、「鹿島の復興」「JR北条駅前、商店街の復興」など、今後の活動方針を話し合いました。

約2時間の設立総会終了後も、TOWERさんに立ち寄った後、引き続き時間の許すメンバーで老舗「太田屋」さんにて美味しい鯛めしを食べながら男四人が熱く語るランチ・ミーティング。この面子で話をしていると北条に明るい光が射しているような気持ちになります。腹の据わった信用出来るメンバーです。

「今年はお年玉年賀状4等が7枚、3等が1枚当たったし、当たり年じゃけんね!」と話した直後の帰り際、今年買ったばかりの靴がない!?隣の席の酔ったお客さんが僕の靴をはきまちがえて帰ったことが判明(焦)。

こりゃホントに当たり年になりそうやな〜(笑)と。

以下、まだ仮ですが、役員と顧問の名簿です。

理事長       藤田(ラジオ・ディスクジョッキー)
専務理事 宮内(櫂練り保存会事務局長)  
理事   室(Tower 代表)
     柿本(鹿青会会長)
     西山(松山市役所)  
監査   五百木(主婦

<特別顧問> 早坂暁(作家)

<顧問>
アート全般       山内(エヒメデザイン協会会長) 
スポーツ全般      小林(松山大ダンス部コーチ)
マラソン部門      土佐(オリンピック マラソン女子日本代表)(仮)
音楽          山根(プロミュージシャン)、梶原(梶原動物病院)
鹿島祭、櫂練り     宮内(櫂練り委員会長
ダンス         田中(マナダレア:ハワイアンダンス講師)
企画アイデア      櫛部(株式会社 四国博報堂 )、瀬戸丸
ビジネスアドバイザー  李(ホテルエコ道後代表)
造園、農業       砂本(三浦工業 造園科)
ボートインストラクター 井上(愛媛大学職員)
歴史自然インストラクター 黒田(自然観察員、フリーライター)
イベント        室(Tower 代表)、戸田、加納(OCEANS13)
鹿島          岩渕(太田屋)、西山


*連携する市民組織

*北条まちづくり協議会、*NPO法人NORA、*NPO法人MUSE(松山大)、*NPO法人石鎚森の学校 
*へんろ宿「坂本屋運営委員会」、*エヒメデザイン協会、*松山市ことばのちから実行委員会 他。


三月に行われる設立総会で会員の皆様に承認を得られればスタートします。北条鹿島の風早社中にご入会頂いた会員の皆様には、このHPの他に、メールにてイベントなどのお知らせを随時送信いたします。4月までには会員証などを郵送致します。4月には会員皆で鹿島で花見をしましょう。

今後ともご協力をよろしくお願い致します。

2011年2月10日木曜日

十八章 観光進行計画より

愛媛県庁の中の観光課にいる大学時代の親友から連絡があり、北条で会いました。お互いの意見交換をする中で、松山市役所の方からいただいた「松山市の観光進行計画」を開くと、友人もこれは熟知していました。



観光客アンケート「訪れた観光スポットの中で、他人に勧めたい観光スポット」第一位は道後温泉(納得)。北条鹿島はというと、すべての世代で0ポイント(これも納得)


観光客が少なくなってもう20年以上も経つそうですが、地元から「鹿島をどうにかせんといかん!」という声があがらなかったこと自体が僕には信じられないのです。どうしてなのでしょうか?誰かがそういう声をあげても皆黙殺していたのでしょうか?


「ほおっておいても、まあいつか誰かががやってくれるだろう、、、。」保守的なこの町のいいところであり、悪いところでもあります。


友人はそんな地元の消極さを責めることなく、「どこも同じ。地元の人をその気にさせてまちづくりに参画させるのもある種、行政の仕事よ」と言ってくれました。


我々のような団体は地元の声の拡声器にすぎません。うまく利用して下さい。


以下、「松山市の観光進行計画」資料より、某東京の旅行会社A社からの声。

「地元の人が何もないと思うような昔の町並みをお客さんは喜ぶ」、
「観光客にうける町並みの条件は、町の景色の中に海か川があること」、
「リピーターの心をつかむのは、味覚よりも風景が圧倒的に多い」、
「首都圏の客層に反響がよいのは、西日本ならではの瀬戸内海の景色と歴史」、
「新たに作るよりも、昔から残っているものにこそ魅力がある」。

北条鹿島はどれにも当てはまりませんか?

2011年2月8日火曜日

十七章 伊予の二見

昨夜一杯やった相手は、三重県伊勢市からやってきた山田祥平くん32歳。人力車が大好きで、人力車を引きながら日本一周を果たした男です。



東京出身の山田くんは、京都の大学に進学するのですが、生まれつき内気で引きこもりがちだったため「人とうまくコミュニケーションをとれるようになりたい」と観光客相手のアルバイトを探します。そこで出会った運命の仕事が「人力車」。道後温泉の前で観光客を乗せて人力車を引いてるお兄さんたちがいますが、あの仕事です。

やってみると、人力車を引くのが楽しくて楽しくて仕方がない。大学を三年間休学して人力車にのめり込みます。人力車は一台180万円もするのですぐに買うことは出来ない。ならば人力車を所有し貸してくれる町に移り住もうと、あちこち探してたどり着いた先が、伊勢神宮のお膝元、三重県伊勢市の「二見」という町。

写真は「伊勢二見」の夫婦岩。北条にある「伊予の二見」の本家ですね。



そこに移り住んだ彼は、町が所有する人力車を借りて、人力車そのものの魅力を伝えたいと市長ら大勢に見送られ日本一周の旅に出ます。普通仕事で人力車を引くときは時速10km近くで走るそうなんですが、日本一周の旅は一日約15kmずつ進むゆっくりした旅だったそうです。

伊勢から東海道を通って北進。東京から埼玉、栃木、宮城、岩手、青森を抜けて北海道へ。北海道を回った後、青森から秋田、山形、新潟、富山、石川、福井、京都、兵庫、鳥取、島根、山口と、日本海側をずうっと下って今度は九州、沖縄を廻って、九州から中国地方瀬戸内海沿いを通って四国へ。四国を回ったあとは大阪を抜けて、去年の11月22日、出発した伊勢で日本一周のゴール。約2年の旅。

昨日彼は、旅の途中、松山でお世話になった人たちにお礼に来ていて、そのお礼先だった風早社中メンバーが経営する「エコ道後」という道後の旅館に僕がたまたま現れて、夜一緒に一杯やることになったのです。


ここで問題。
人力車を引きながら日本一周した山田くんが一番好きだった町は次のうちどこ?
1.函館
2.松山
3.長崎

答えは、

一位は松山、二位函館、三位長崎だったそう。松山は町の調和がとれていてみんながやさしいと。お世辞でもうれしいですね。逆につらかった町、無視されるよう冷たい仕打ちにあった町もあったようですが、ワースト3はふせておきます。

人力車の話をしている時の山田くんの顔は、おじいちゃんが孫をあやしている時のようににやけた甘い顔になります。とにかく人力車を引くのが好きで好きでしょうがないのです。

そんなに好きな物があるっていうことも、日本中を旅して廻れる環境も、毎日あくせくした生活に追われる我々にとってはうらやましい限りですが、忘れかけていた大切なことを思い出させてくれるのはいつもこういう外からの風、旅人です。旅人から旅の話を聞いていると自分も一緒に旅をしているような気分になれます。

彼は今後、伊勢二見で全国からたくさんの旅人が来てくれるようなカフェや旅館をしたいと言ってました。あと、「伊予の二見、夫婦岩の縁もあるので、松山ともっと親密な交流ができれば」とも言ってました。彼は伊勢市長さんとも知り合いらしいので、「近い将来伊勢と松山が姉妹都市になれるよう薦めてもらって、互いの夫婦岩に大勢の観光客がくるように交流を深めていければいいですね。」と話しました。


以下写真は北条の伊予の二見、夫婦岩。
一昨日山田くんはこの景色が目の前にある北条土手内TOWERにたまたまお茶しに来ていたそうです。